石ころ

聖書のことばと詩と短歌や俳句などで書いています。息子の美しい写真とのコラボです。

迫害の無い所(使徒17章)




兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。(使徒17:10)

町から町へ、迫害によって燎原の火のように広がって行く福音。使徒は激しい迫害に追われては次の町に行き、時を移さずイエス・キリストの福音を語り続けた。このエネルギーは聖霊によって日々満たされてのこと。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。(使徒17:11~12)

「素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ・・、」新改訳2017

神の選びによって素直な心とみことばへの熱心が与えられる。それは自分から出たことではなく神によって備えられたもので、人にはただ感謝なことである。

ベレアにも迫害が及んだ時、パウロはひとりアテネに案内された。シラスとテモテはここにとどまっていた。

さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。(使徒17:16)
アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。(使徒17:21)

アテネはベレヤとは霊的に正反対であった。哲学者や学者のような人々は、互いに理解できる知識に興味を持っているのであり、イエスさまの誕生や復活は即座に切り捨てられる言葉であろう。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)

私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。(使徒17:23)
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、「私たちもまたその子孫である」と言ったとおりです。(使徒17:28)

これらを用いる伝え方は賢い手段のようだけれど、「知られない神」が偶像に並べられている時点で、用いることができないのではないかと感じ、詩人の言葉を用いて主を語る事も、混ぜもののようで違和感を感じた。
此処でのパウロはこれまでとは少し違っているが、パウロと言えども一人では十分に働けないのだろうか・・。そんな事を考えさせられた。
アテネでは迫害は起こらなかった。

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)