
そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」(ヨハネ19:10~11)
ピラトは自分に何の権威もないことに気付いていない。
事実彼はイエスが無実であることがわかっても解放することができない。「神の子」という言葉を聞いて恐れても事実を知ることもできない。彼はただ、神と人を恐れてその間でうろうろしているだけである。その自分の憐れに気付いていない。人とはそういう者である。
だからイエス様に、無実の罪による十字架刑を許してしまった彼の罪よりも、ピラトに十字架刑を強要したユダヤ人の罪は重いのである。ピラトよりも彼らの方がその権威をもっていたからである。
ある時は「ユダヤ人の王と言った」といい、ある時は「神の子と言った」と訴えた。偽りの言葉は定まらないものだ。
彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(ヨハネ13:27)
十字架はイエス様の許可によること、主のご計画であった。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。(ヨハネ3:14)
そのことは神の権威によって成ったのである。ピラトによるのではない。また、ユダヤ人のやりたい放題によることでもない。
さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。(ヨハネ19:23~24)
目に見えるイエスの衣は、みことばのままに剥がされ朽ち行く者が奪った。
しかし、すべてが「完了した」時から、主ご自身が食べものとして、永遠のいのちの糧としてキリスト者に分け与えられ続けている。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ6:52)