神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(1~2)
キリストがやがて裁かれるのは、過去から未来に至るすべての人類である。死者も墓から出て来て御前に引き出され、神のプレゼントである十字架の救いを拒絶した者が、永遠の裁きであるゲヘナに投げ込まれると聖書に書いてある。
だから、その救いのために福音を伝えているのである。みことばは時に責めるようであっても、不当な脅しのようであっても、偉そうに戒めているようであっても、命をたまわっるキリストの愛から出ているのであり、救いは、今この瞬間の選択にあるからである。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(3~4)
神の真実な言葉は人の魂を怒らせる。それは善悪の知識の木の実由来の、賢さによるプライドを砕くからである。
救いは、キリストの十字架であがなわれた罪を、神さまに感謝をもって告白し、キリストの復活によって、新しいいのちをたまわった事実を認めることに拠るのだ。
しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。(5)
慎みは聖霊に導かれるままに語り、それ以上に人の思いに関わらないことである。
神が人に与えられた自由を支配することとは違うのだ。みことばを導かれる聖霊にお委ねして、哀願の祈りのうちに真実を語り続けるだけである。
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(6~6)
なんと素晴らしいパウロの証だろう。このように告白しつつ召される時を待つことができるのは、キリスト者にとって最高の喜びであろう。
パウロの言葉の保証は内なるキリスト。それは「OK」がなければ口することは出来ず、完成してくださる方に拠る言葉である。
今私たちは、歴史の中でパウロを見て同意することが出来るからである。
私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。(16)
パウロもイエスさまの御足跡を歩んだ。イエスさまの祈られたように取りなしを祈っている。その時、共にいてくださるキリストが現れてくださるのだ。
しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。
主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。(17~18)
主にとどまる者にはすべての必要を満たしてくださり、その働きを完成させてくださる。それはキリストのご性質によることである。此処に私たちの確固たる平安がある。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)
主に信頼するキリスト者には誰でもこの約束がある。死は世では最悪であるが、キリスト者にはどのような死に方であっても、そう、キリストのように迫害の十字架であっても、栄光のゴールインなのである。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(8)