「姦淫してはならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(27~28)
結婚はイエス・キリストと教会の形を現し、それは人類への神の祝福である。それゆえに結婚に在る祝福を汚す罠も強力である。
アダムの堕落によって入った罪は、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」との神の祝福の健全な命の営みに、誘惑が付きまとうようになった。
この誘惑を完全に支配することは難しいが、それらの罪に囚われることなく過ぎ去らせることが出来る。
キリスト者は罪と対峙して戦う者ではなく、すでに勝利をたまわって居り、イエス・キリストへの愛と感謝と喜びに満たされている身には、渇きに付け込む誘惑が入る隙はない。
救われた者のうちには、主とお交わりの絶えざる祈りがあり、人の最も深いところにある霊の満足は、魂も体も主の愛に包んで満足と安らぎがあり、健全な命の働きをなさせるのである。
イエスのみことばは厳しいが、十字架を通って父なる神に願い信じる者に聖霊を遣わせてくださった。
聖霊はキリスト者の霊とともに働いて、主に留まるためのすべての必要を満たし、神の聖さに導き続けてくださる。このことは人の頑張りではなく神の御わざである。
もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。(29~30)
体の一部を切り捨てることは命の一部を切り捨てることである。目や手のわざによって積み上げられる人生を、聖と義のために切り捨てるとき、その目も手も神への捧げものとなる。
罪の結果であるゲヘナに代えて、永遠のいのちをたまわるために、限りある世の欲を捨てるのである。
生まれつきのままに命のすべてを世に捧げて、互いの顔色を伺いながら辛苦し、創造主なる神を神としない罪の中で滅びを刈り取ることは、みこころではない。
イエスはそのように滅びる命を惜しんで、神である身を捨てて人となり、死と復活を通して永遠のいのちの道を開いてくださったのである。
人がこの世で滅びを選択することは、イエスのいのちのプレゼントを無にすることであって、主を悲しませる非常に大きな罪である。
神の国を求めるとき、人はみことばへの従順という捧げものを持って主の御前に来る。その捧げものが世を恋い慕う目であり、世に仕える手であり命である。
使徒たちはそれらをイエスに差し出して永遠の栄誉をたまわった。体の一部を切り取るほどの信仰は、
「天地はイエスの言葉によって創造された」と明確に語って無知と笑われ、
「神であるイエスは処女マリアに宿り、人となって世に来てくださった」と語って愚かと嘲られ、
「イエスはすべての人の罪を負って十字架で死に、墓に葬られて三日目によみがえり、五百人以上の弟子に現れて、天に昇り、父なる神の右の座に今も生きておられる。」
また、「信じる者の霊のうちに父なる神と聖霊なる神と共に今も住んでいてくださる。」と、神の子とされたほどのキリストのあがないをそのままに語る。
そのとき世で失うものがどれほどあったとしても、目や手を切り捨てることと比べれば、何ほどのものでもないだろう。
それによってゲヘナから救い出されるのは、自分自身だけではなく、愛する家族であり親しい人々なのである。
弟子が求めるものは神の栄光であり、その願いに留まっていることは守りである。
明確なみことばが、どれほどの人々を永遠のゲヘナから救って永遠のいのちに移し、神の喜びとしたことであろう。また、イエスの御名があがめられ続けている。
ヨブは子どもたちの家族や全財産まで失っても
「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の聖名はほむべきかな。」と語って神をあがめた。そのとき彼は、世に持っていたすべてを主に捧げたのである。
しかしヨブが決して手放さなかったものがある。それは神を知ることの願いであった。
サタンに責められて体までボロボロになっても、親しい友人に責め立てられても、彼は彼の信じる神との交わりを求め続けた。
それは彼の傲慢な願いではないことは、神が多くの言葉を彼に語ってご自身を知らされ、子どもたちや2倍の財産を与えて祝福されたことでわかる。
イエスは弟子に求めるべきものを教えられる。世の命と引き換えてもそれを失うことがないようにと、やがて殉教して行く彼らに、天に在る永遠の祝福を導かれた。
しかし人には目ほど強力な誘惑はなく、エバもその誘惑に勝てなかったのである。主に命じられてもいないのに、世に関わって見に行くべきではない事柄がある。
イエスに留まっている者は、聖霊の充満の中に満ち足りて、救いの感謝と永遠のいのちの喜びに魂は安息しており、世の飢え渇きに侵入する誘惑からは遠く守られているのである。