石ころ

聖書のことばと詩と短歌や俳句などで書いています。息子の美しい写真とのコラボです。

神の子に在る備えの豊かさ(マタイ6章)

 

 

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(24)

 

二人の主人を求めるのは、真の主人が分からないからである。世の富に渇くのは、終わりなき祝福のいのちを知らないからである。

 

御子の命をたまわるほどの豊かな神の愛に満たされた心は、永遠の望みに安らいでおり、他に頼むべき主人を探しまわることはない。


しかし、イエスを否む心は真の愛に飢え渇いて、過行く命の空しさを埋めるために世の富や、人の誉め言葉を求め続けて、二度と戻らない命の時間を消耗して行く。

 

わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。(25)

 

いのちもからだも創造主からのたまわりものであり、信じようと信じなかろうとすべて主のものである。

私たちがイエスの救いを受け、神の養いによって生きるとき、私たちの命の必要は主が心配してくださる。

 

死から復活されたイエスを告白する者はすべて新しくされた神の子であり、信じた時から神の良いご計画によって生きる。

 

その事実を知る者がどうして明日の命を心配し続けるだろう。聖霊が導くみことばは確かなイエスの備えを指し示して、キリストの平安を守ってくださる。

 

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。


あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。(26~27)

 

鳥はその命を、創造主のみ旨のままに生きて思い煩うことは無い。鳥には二人の主人を持っ賢さが無いからでる。


人が神に逆らって罪を知り、神の御目を避ける者となったとき自分の身を守る神々を作るようになった。

それは「自分を信じる」と自身を神とし、金を主として死ぬまで仕え、人気を主として人の顔色を伺い続ける。


しかし其処にいのちも平安も無いのは、永遠に変わることのない神が居られないからである。

 

なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。(28~29)

 

神の創造の美しさはその命に在り、それらは一日として同じ日は無く常にみこころを成し続ける。

明日は枯れゆく花であっても今日たまわった命を完成して、創造の主をほめたたえて命をに繋ぐ。小鳥だってたまわった命のままに造り主の栄光を歌い続ける。

 

みこころを生きる命は造られたままに主を賛美してみな美しい。

それゆえ自然を見るとき私たちは心を揺さぶられる。みこころのままに生きる命に・・。

 

今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。(30)

 

花にも鳥にも命を輝かせてくださる創造主の祝福。まして神の形に造られた人に在る神の御思いは、愛する御子をたまわるほどの犠牲によって、私たちに神の深い慈しみは知らされている。

 

救いは神の備えによってたまわっている。キリストに信頼する者は平安のうちに世を生きて、聖霊の導きによって神の良い計画を成し、新しいいのちを日々に味わいつつ、やがて主にお会いする時に思いを馳せるのである。すでに彼らの国籍は天にあるのだから。

 

エスが水の上を歩かれたのを見たペテロは、イエスに願うと水の上を歩くことが出来た。しかし強風を恐れたときに沈みそうになったが、彼がしたことはイエスの聖名を呼ぶだけであった。イエスは手を伸べてペテロを掴んでいてくださった。(マタイ14)

 

それゆえ主に信頼する者には、生きるにしても死ぬにしても常に主と共にあって、みこころを行うことを恐れないのである。

 

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。(31~32)

 

エスの御救いによって御許に生きるいのちをたまわった者は、今もそのいのちの中で生きており、命のための心配から解放されている。

 

世に在る日々を愛するイエスを知ることに用い、みことばの真実なことを経験して喜び、感謝の祈りと心に絶えない賛美の中で、御愛に応答しているのである。

 

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(33~34)

 

すべては主が備えてくださったことゆえに、「御国が来ますように。みこころが成りますように」と、この身を差し出して聖霊のお導きを求める。神が備えてくださった今日を生きるために・・。

 

明日を備えるのは命の作者イエスである。永遠のいのちの喜びを共にする道を見つける明日であり、新しく主を経験する明日なのである。

 

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