二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。(29)
日本人は一匹の蚊にさえ憐れを感じることが出来る民族であり、このお話はわかりやすい。
すべての命には作者があり、神の形に造られた人を母の胎で組み立てられた神は、ひとり一人に良い計画を準備して命を祝福していてくださっている。
神は民族ごとにそれぞれに人を造られた。同じ民族でさえも人はみな個性的であるのは、個々に細やかな神の計画が込められた作品だからである。
それぞれに場所を与えて住まわせた神は、使徒たちから始めてそれぞれの民族に福音を告げ知らせられた。今やイエス・キリストという名を知らない地は無いであろう。
罪がもたらせる死は永遠に終わりの無い火の裁きである。それは神の義による裁きである。しかし神の愛はイエス・キリストを信じる者に与えられる永遠のいのちである。
この福音が世界中に知らされ今、神の計画は完成に向かっている。神が造られたすべての命は、このどちらかに至るのであり例外は一つも無い。天地創造の神に拠らずに存在する命は無いからである。
雀の一羽の命さえも神に知られずに死ぬことはないなら、まして、御子をたまわるほどに愛しておられる世界中のひとり一人を、御許に取り戻そうと福音は世界告げ知らされたのである。
今目に見ていることだけがすべてと騙されて、霊である神の愛のみことばから切り離される時、自分の手で好みの形を作り願いを唱えて命の頼りなさを埋めようとする。
そのようなことは生まれつきのままに創造主を悟らぬ、横着な肉に寄り頼む罪から出たことである。
死に向かっている体によって見聞きするものがすべてと騙されてはならない。
しかし、神はそのような人の弱さに寄り添って、目で見ることができるように御子イエスを人と同じ姿で世に遣わせてくださった。
神の愛をイエスの命の用い方に拠って知ることが出来るに様に、そうして知った方を信じて罪のあがないを受け取り、無罪とされて永遠の刑罰から救われるためである。
あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。(30~31)
日々に抜け落ちる髪の毛の数さえもご存じという、これほどにすべてをご存じの主に在って平安であるのは、キリストの十字架がどれほどに完全なあがないであるかを聖霊が教えてくださるからである。
イエスが命を捧げられた執り成しと、聖霊が通訳してくださるみことばの約束に在って、キリスト者は神に愛されている事実を知っており、自分を恐れずに霊による絶えざる祈りの中に御交わりを喜んでいるのである。
神のかたちに造られたいのちを神は愛していてくださる。神の御真実のゆえに他のすべての命に勝る価値を覚える時に、敵であろうと味方であろうと人の命の重さをわきまえるのである。此処に福音を真っすぐに語って止まない熱心が在るのだ。
ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。(32)
天地創造の神を唯一真の神と認めた者は、聖霊の導きの中でイエスを救い主として心に受け入れ、たまわった永遠の望みに安息する。
また聖霊に解き明かされたみことばを、聴いたままに受けて恐れず真っすぐに語るようになる。それは神の子の聖さに拠ることである。
人の賢さやご機嫌取りに拠ってみことばを捻じ曲げることがないのは、従順の中で聖霊に拠って語るからであり、人の心を思い煩わないで語るのは、全能の神の良い計画に信頼してのことである。
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。(33)
人の心を思い煩ってみことばを真っすぐに語れないのは、神の御愛を知らないからであり、それは、みことばに従順して経験する神の備えを知らないからである。
みことばを聞いて心を探られることも、痛みを覚えることも、肉の激しい反発も、創造主なる神に無関心なままで死ぬことが無いためである。
みことばは永遠の救いと永遠の滅びにふるい分ける。イエス・キリストを選び取るためには、真実な神のことばを知ることから始まる。
神は「わたしの愛する子」と言われたひとり子を十字架に送り、過去現在未来すべての罪をあがなって神の家族とし、神と共に生きる祝福のいのちを準備してくださった。
これほどの愛を「わが主、わが神」とひれ伏していのちの恵みを受けるとき、たまわったその歓びのゆえに、我を忘れてみこころに生きることを求め、聖霊の助けの中で純粋な神のことばを語り続けるようになるのだ。