これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(4~5)新改訳2017
罪に怯える闇を喜ぶ人はいない。誰でも光の中を喜ぶ。本当はみな神さまにほめられ、認められて安らかに居たいのである。
ただ、光の中で生きようと努力をしても、完全になることができなくて自他に訴えられ、あの人よりはマシという言い訳の中で、闇に閉じ込められているのである。
光と闇の違いは比べてマシという罪の軽重を問うものではなく、罪の有無の問題なのである。
それゆえ、神はキリストを遣わされ人のすべての罪を負わせて、完全に罪を処理してくださったのである。それも過去、現在、未来にいたるすべての罪のあがないである。
神のキリストが身代わりに私の罪を負って、十字架で死んでくださったことを、心で信じて口に告白するなら救われ、闇から光の中に即座に移されるのである。
キリストが十字架で支払ってくださった罪のあがないは、まったく一方的な神の赦しであり、闇から光に移される唯一の方法なのである。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)
信じた人は、神さまに罪のない者とされ、聖い者とされて光の中に迎えられ、永遠に子としての安らぎをたまわるのである。
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(6~7)
キリストのきよめの血潮に洗われても、私たちは罪に引かれることがあるが、その時は聖霊が嫌悪感を与えて教えてくださる。
その時、救われる前の古い記憶に留まらないで「イエスさま」と御名を呼ぶなら、直ちにきよめ守ってくださるのである。何時も主と一緒にいるから、直ぐに御名を呼ぶことができるのである。
しかもその時、それらの罪や愚かさや弱さが隠す必要のないことであり、むしろ神はすべてを初めからご存じで、忍耐して愛されていたことを知るとき、そこでは深い安心と信頼が生まれるのである。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。(8)
キリストの罪のあがないを受ける条件は、罪人であることである。自分に罪は無いというなら、その人は神を嘘つきと言っているのであり、その言葉によって救いを受ける事が出来ない。
人と比べる価値観によって、自分を無実だということは、唯一救いを受ける事のできない罪である。ご真実なキリストは正直な告白によって、どんなに重い罪も赦してくださるが、罪が無いという人の罪は負えないのである。
神は言われた。「義人はいない。ひとりもいない。」もし自分を義人だというなら、神は嘘つきと言うことなる。
人のもっとも根本的な罪は、神を造り主として認めないことである。神の愛の証明として遣わしてくださったキリストを信じないことは、神の愛に対する拒絶である。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(9~10)
これ以上の有利な取引はないだろう。神さまに正直に罪を認めて告白するだけで、赦しときよめをたまわるのである。完全に無罪として罪を犯す前のアダムのような、永遠のいのちの祝福をたまわるのである。
この条件を知った上で、なを創造主を神と認めず、キリストの愛を無視して短い命を生きることに、また、神を認めない刑罰を受けることに、一体なんの利益があるのだろう。これはとても簡単な計算なのである。