
ヨブの三人の友は因果応報によって神の言葉を語り、神の怒りを買った。主はエリファズに言われた。
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。」
ヨブのようではなかった・・。ヨブは自分のはらわたから、すべてを吐き出すように語った。命を賭けるようにして、主を知りたいと訴えて叫んだ。彼には他人事ではなかったからである。ご真実な神さまは、いつだって、そのような叫びを聞き流すことなどお出来にならない。

人は正しさの基準を持たないので、比べることで自分の義を証明しようとする。
因果応報の考えを基準とするから、病や、災害、自然な老いさえも、自他の責め言葉によって辛さを増し加えて、サタンの脅しの道具となるのだ。
あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。(ミカ7:18)
ユダヤ人にもギリシャ人にも、神さまの忍耐によって罪が見過ごされて来たのは、イエス・キリストの十字架の赦しを賜って、一方的な神の愛を経験するためである。
罪の重荷から解かれ、神さまとの平和の喜びにあふれて礼拝し、永遠のいのちをたまわるためである。
律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:20~21)
すべての罪は、イエスさまの十字架の血潮によって、恵みを増し加えられる材料となり、鈍感な者でもその罪の故に、神の御愛の深さを知るようになる。
御霊によって導かれる者を義のたまものによって支配してくださる。それは、罪を戒めるムチと身を守るための杖が、いつも霊の内にあるからである。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:23~24)