だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。(16)
教会は世と神の国との接点であり、両方が入り混じるところである。麦も毒麦も定めの日までそのままにされているからである。
肉の働きと霊の働きの違いは、人には見分けられないことなので、聖霊の促しによって互いに祈っている。
ただ、聖霊が導かれるみことばを否定する者は、キリストと無関係である。なぜならイエス・キリストはことばなる方であり、否定するなら救うべき手段はない。
この罪について私たちは立ち入らない。ただ、真っ直ぐにみことばを語り続けるだけである。
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。(ルカ12:10)
聖霊に導かれるみことばの知識において、私たちは神から生まれた者であるこを知る。その確信によってみこころを生きる力を得ている。
聖霊によらなければ、イエスから直接メッセージを聞いたかっての宗教者たちも、キリストと悟ることはなかった。
不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。(17)
神は侮られるようなお方ではないが、誰でも悔い改めるならキリストの血に洗って、新しく生まれさせてくださる。
真のキリスト者が生み出されるために、私たちが祈り続けるのは、神の選びを願ってのことである。
無知のゆえに、神を謗ることで死に至るなら人は誰も救われないだろう。それゆえ、助け主である聖霊が来てくださった。
また救われた者は、うちにおられるキリストと共にみことばを伝える。今も救いのために働いておられるキリストを伝えるために、日々みことばを開いて聴き続けるのである。
今日、必要なみことばをあらかじめ備えていただくために・・。