長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。
真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。(1~2)
みことばに応答して救いを得た婦人とその子たちに、こんなに丁寧に愛を伝えているのは、婦人や子どもたちが片隅に置かれて、持っている良いものを認められる存在ではなかったのだろう。
婦人は教えることを禁じられており、経験している神の愛を語る交わりに置かれなかったのかもしれない。
ヨハネは彼女たちに「安心しなさい」と神の家族の愛を知らせている。
沈黙の中にある信仰であっても、神の家族であることは永遠に変わることは無く、真理の中にあると励ましている。
聖書に婦人が語ることを禁じている箇所があるが、神は婦人と共に働いて命を産み出す役割を与えられた。それは最上の特権であり、その上に言葉巧な女性に語る自由を与えるなら、男性にはあまりにも不平等であろう。
子どもを産み育てることは、祈りにより頼むことの繰り返しであり、その度に必要の備えや、癒しの中で命が主のものであることを経験している。
たとえ子どもに恵まれなくても、神は女性の存在をそのように重んじていてくださるということである。
父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。(3)
主に在る真理を知ることは、いかなる状況にあっても見失うことのない平安をもたらせる。
御父と御子の永遠の愛を受けて、たまわったいのちの希望は世のすべての理不尽を癒すに十分である。その方は永遠までイエス・キリストの救いを受けた者と共に在るのだ。
御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。(4)
イエスのうちに在ってみことばを聴き続け、みこころに神の子たちを育てる真実な婦人の存在は、ヨハネをどれほどに喜ばせたことであろう。彼女たちは神の子を育てているのである。
そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。
私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。(5~6)
愛である神のことばに従って生きるとき、人を神の愛で愛することが出来る。みことばを語り合う交わり、主の愛によって受け入れ仕える愛である。
この愛は、生まれながらの人には理解できず行うこともない。それは感情に拠るものではないからである。
みことばに従う時にのみ敵を愛すること、七の七十倍の裏切られても赦すことが可能となる。たとえ感情が逆らっても、愛する主に従順して喜びとなるからである。
こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(7)
世はキリストを認めないゆえに、いのちのことばを受け入れることはない。キリスト者も世に在る間は、魂で共感する交わりに生きており、惑わしの言葉の中で生きる。
そのような日々に、誤りの無い神のことばを聴き続けるのは、聖霊の導きに拠ることである。うちに蓄えて来たみことばを時に相応しく思い出させてくださるからである。
気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。(8)
婦人が家族に伝えることは生活の中にあり、みことばを口で教えることがなくても、祈りとみことばにより頼む日々の選択によって、家族にいのちを守るための戦い方を経験させる。
試練の時にも、みことばに信頼する主の平安の中で、生きて働くみことばの経験を家族は共にするのである。
だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。(9)
みことばを待つことは世の流れに逆らって立つことであり、主に留まっていることこそキリスト者の戦いである。
サタンは人の賢い言葉を聞かせて誘惑し、世の状況を見せて脅し、それでも動かぬ者を愚かと嘲る。
しかし、それらの言葉になんの真実があるだろう。たとえそれが現状であっても、主はみこころのままに一瞬に覆される。
先走るときは、自分の賢い判断力や分析力に拠るのである。「付いてこい」と主の前を走るのである。「私が教える」と・・恐ろしいことである。
婦人は家族の必要を察して癒しのみことば祈り、主の恵みを用いて食事に心を配って力を与え、主と共に働いて明日の命を準備する。
うちに御父と御子を持っている者は、聖霊によって永遠の望みに生きており、無言のうちにもその存在によって生きて働く神の祝福を伝えているのである。