石ころ

聖書のことばと詩と短歌や俳句などで書いています。息子の美しい写真とのコラボです。

光の中にとどまれ(Ⅰヨハネ2章)

 

愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。
しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。(7~8)


朝毎に新しく聖書のページを繰るときは、今日は何を聴くのだろうかと少しドキドキする。みことばは日々に新しく教えて信仰の深みに導き、その日の歩みに寄り添って危険から守り、信仰をきよめて成長に導いてくださるから・・。


旧約聖書に預言されたキリストは、天からマリヤの胎に無力な赤子となって下り、人の中で育てられて乏しい愛の弱さや、病いの苦痛や、労働の汗や、人の裏切りも罵りも経験してくださった。それゆえ私たちの弱さを良くご存じで、神さまに弁護していてくださる。


キリストは、使徒たちを育てて福音を語り聴かせ、わざによって神を見せられた。十字架に人の罪をあがなって墓に葬られ、黄泉にまでくだり、三日目によみがえって500人以上の弟子たちに現れ、罪のあがないが完了していることを示された。今、天で神の右の座に在って、私たちを弁護していてくださる。


今、私たちの霊のうちにいてくださり、私たちもキリストのうちに一つという交わりに在る。それゆえ私たちは、神に強力なコネクションを持つ者なのである。
その事実こそまことの光であり、その光の中に身を避けて安息している者は、闇の性質を持たず、キリストの交わりによってきよめられ、その交わりが日毎にキリストに似たものとするのである。


光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。(9~10)


つまずく者は光の中にとどまっていなからとある。キリストの愛の中に浸されているなら、みことばの約束を知っているなら、霊も魂もすっかり安息していて、兄弟を妬んだり羨んだりして憎む必要はないのである。親密な聖霊の交わりを知らないから愛に渇いて、主のものを攻撃するのである。


兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(11)


心が悪いものに支配されて病むと、光の中でキリストを愛する信仰者を憎んで、闇に身を避けるようになるのだ。
しかし、主が愛する兄弟を憎むことは、キリストを憎むことなのである。私たちは兄弟のために悲しむことがあっても、主のゆえに愛していると言ってそこに留まる者である。


ユダが、イエスさまの愛する兄弟の交わりを離れ、夜の闇に出て行ったのと同じにはならない。その時イエスさまは彼の心にある「イエスを売る」計画を許され、行ってそれを行えといわれた。
主は人の心にあることを行う自由を与えられる。いつもキリストの聖い交わりに安息しているなら、私たちは神の喜びの子である。