
兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。(使徒13:26)
御子イエスさまは、約束の民であるユダヤ人に送られた。しかし彼らには、イエスさまが理解できなかった。それは、与えられた神の戒めに多くの言葉を付け加え、互いに訴え合う生き方の中で、神のことばから遠くなってしまっていたからである。
そうして、「おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのこと」(使徒13:41)が起こり、イエスさまが仕える者の姿をとって来られた時、受け入れることができずに預言がなったのである。
しかし、ご真実な主の御愛は変わる事がない。
「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。(イザヤ54:10)
復活のイエスさまに出会った者の言葉には力がある。だから真っ直ぐにパウロのメッセージを聞いた人々は、恵みのことばへの渇きを覚えた。
ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。(使徒13:42)
真っ直ぐに福音を聞いた人々は、「同じこと」をもっと聞きたくなった。みことばは繰り返し繰り返し聴き続けて身に付けて行くもの。神の恵みにとどまるとはそういうこと。
その時聴いた言葉を、聖霊は自分の言葉としてくださる。みことばに同化して、神のご支配に移されて行くときは聖霊の助けがある。
会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。(使徒13:43)
いつまでも神の恵みにとどまっているために、まず、福音は常に自分自身に語るものであり、自分の中に何を見ても、心から何を聞いても、みことばの約束を選び取って、イエスさまとの平安の中に住む。成就するのはみことばだからである。