
あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(12)
人にはこの例えはなぞである。九十九匹を山に残して、愚かな一匹を捜しに行くなどとは絶対にしないからである。人は九九匹に執着して満足し、賢く計算して愚かな一匹を見捨てる。
イエスのいのちの熱心は、一つの一つのいのちが罪に滅びることを惜しんで、神の御座から下り、十字架の嘲りと激しい痛みの中で、身代わりの罪を負って死ぬほどの愛である。
まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。(13)
この愚かな一匹を賢い九十九匹以上に喜ぶことは、それが神の価値観であり、そのような神に拠ってひとり一人、世から捜し出されて救われたキリスト者である。
それゆえ成長も善行も、聖霊がみことばの内に導いて永遠まで運んでくださっている。
救われた者はキリストのうちに在って安息し、永遠のいのちの喜びに満ち足りて主をほめたたえているのだ。
このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。(14)
イエスは父なる神のみこころによって、十字架でご自身を捧げ救いを全うしてくださる愛は、ひとり一人の救いのために十字架を負ってくださる愛である。
それは群衆のためではなく、ひとり一人の名を呼んで「どうしてほしいのか」と尋ねてくださる御愛である。
キリスト者は十字架の血潮に罪も愚かさも洗われて、新しいいのちをたまわり、神の子とされて生きる者である。
イエスの御足跡を歩むための聖霊の助けがあり、その日常に在ってみこころを行うことを求める者に必要は備えられる。
また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。(15)
イエスが十字架できよい血潮を流され、すべての罪を洗われた者が、なを罪に留まり続けることは、あれほどのイエスのあがないを無にすることである。
救いから迷い出したその一匹を取り戻すために、あがないのうちに彼を連れ戻そうとするのは、イエスの貴い血潮が支払われているからである。
もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。(16)
彼の罪をイエスの光の中に引き出すのは、赦しを宣言するためである。
罪に閉ざされている頑なな目を開いて、みことばの赦しを語るためである。教会はそういうところである、みなイエスの赦しの中に住んでいるからである。
それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(17)
私たちはその異邦人であり、イエスは取税人ザアカイの家に行って客となられた。私たちは九九匹を置いて捜し出された一匹である。
「ひとりも滅びることなく永遠のいのちを持つため」のイエスの熱心によって人は救われるのである。
今失われている約束の民にも、主はひとり一人捜し出して永遠のいのちに運んでくださっているのだ。運ばれる者の謙遜の中で、神の約束の御真実によって。