
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。(13)
弟子たちはイエスのことばを聞くに相応しい者を選択しようとする。天の御国に入ることばは子どもに相応しくないと、学者を従える先生の弟子であることを望むのだ。
しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。(14~15)
それは子どもたちが聖いからではなく、彼らが連れて来られるままにイエスに来て、御手の下に頭を差し出したからである。
救いの条件はイエスに来ることであり、イエスに愛されることを恐れないことにある。
イエスはイスラエルの救いのために来られたが、彼らを代表する宗教家たちは、イエスの御手の下に自分を置くことを拒んだ。
彼らは神の権威を自分たちのものとして用いていたので、神であるイエス・キリストを否定して排除したのである。彼らが求めていたものが天の御国ではなく、世の栄誉だったからである。
子どもたちは与えられるものをそのまま受けて喜ぶ。救いのわざを成し遂げるキリストの御手の下に来て、与えられるままに祝福を受け取るのは、イエスを愛する親の愛に安息してイエスを愛したのである。
イエスに連れて行く者の動機は愛である。イエスはご自分に来る者を選択されない。盗人でイエスを売るユダでさえ受け入れられたほどである。
イエスが天からいのちを与えるために来られたのは、神の救いを必要としている人のためであり、来る罪人を受け入れて頭に救いの御手を置いてくださる。
イエスに信頼する者は自分のあれこれではなく、イエスの約束のことばに留まって、復活のイエスと共に御国の子とされるのである。
子どものように信じ受け入れたみことばが、永遠に変わることの無い真実な神のことばだからである。
弟子たちはイエスに招かれたとき、子どものように真っすぐに御許にやって来て、御手の下に頭を差して命を託した。彼らの選びはただそのことに拠る。
イエスの御手の下に留まった弟子たちには、常に彼らの信仰を守り導く神の御手があり、彼らの従順を完成させて栄光を現させてくださったのである。