石ころ

聖書のことばと詩と短歌や俳句などで書いています。息子の美しい写真とのコラボです。

子ろばに乗る王(マタイ21章)

 

 

 さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。


「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」(1~3)

 

主はみこころを行うための必要を予め備えてくださる。ただ、みことばに何も付け加えず何も取り除かずに、命じられた通りを行うのである。
それを行うための必要は、世の知識や人間関係ではなく、愛想の良い振舞いにも拠らないで、みことばに信頼して自身を捧げて成すことである。

 

 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(4~5)

 

子ろばに乗って来られる方を見た者が、預言者を通して語られたことばによって彼らの王を知るための備えであり、イエスをキリストと知るみことばは用意されていたのである。

 

王が子ろばに乗って入場する姿は、みことばに拠らないと滑稽であったろう。イエスがローマと戦って勝利を得るための王ではないことが、誰にでも一目でわかるためである。

 

そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。(6~7)

 

弟子たちが自分の判断を何も付け加えずに、みことばの通りにしたのは、彼らがイエスの弟子であって預言の成就を信じたからである。

ただ、彼らには未だイエスが繰り返し語られた十字架には繋がっていなかった。

 

戦いの王は馬に乗って人を支配するために来る。平和の王は子ろばに乗って、すべての人のためにご自身を捧げるために来られた。

 

すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」(8~9)

 

子ろばに乗って来られたイエスは、罪人を滅びの死から解き放ち御許に取り戻して、永遠のいのちを与える王である。しかし、此処にイエス・キリストを悟る者はひとりも居なかった。

 

こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。
群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。(10~11)

 

イエスが歓迎されほめ称える群衆に迎えられたのは、この世の王としてである。

しかしイエスはこの世の王ではなく、他人の罪を負って死ぬべく神から遣わされたキリストである。

 

キリストに付く者は一時ほめたたえられることがあっても、世には愚かなことばを語り続ける者であり、イエスの御足跡を選び取って罵りの十字架を負う日がある。

 

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(1コリント1:18)

 

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