石ころ

聖書のことばと詩と短歌や俳句などで書いています。息子の美しい写真とのコラボです。

失敗の記憶が謙遜となり完全となる(ガラテヤへの手紙2章)

 

 

 

それから十四年たって、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
私は啓示によって上ったのです。そして、私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました。おもだった人たちには個人的にそうしました。(1~2)

 

御霊に結ばれた一つの教会であることを示すために、パウロはエルサレムに上って行き、ペテロたちはパウロの働きを受け入れた。


それは教会の喜びである。福音が広がってキリストの救いが多くの人々に及ぶこと、イエスの御名が世界で崇められることの始まりであった。

 

パウロは自分の成すべきことをすべて果たしている。それはパウロが傲慢であったら成らないことであり、ペテロたちが傲慢であったら教会は分裂することであった。

彼らは聖霊に結ばれた一つとなって、サタンの罠から教会を守った。

 

しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした。
忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。(3~4)

 

パウロとペテロにはイエスを共に喜ぶ関係が出来ていたので、異邦人もパウロの導きに拠る信徒として受け入れられ、此処にみこころが成ったのである。


それはどれほどにパウロの喜びであったことだろう。それは確かにペテロとの交わりの実であった。

教会にとって永遠に残る交わりは世のあれこれではなく、イエスのことばを語り合い、イエスの経験を分かち合う交わりである。

 

私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。
そして、おもだった人たちからは──彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません──そのおもだった人たちは、私に対して何もつけ加えはしませんでした。(5~6)

 

聖霊に謙遜なみことばの交わりは、霊のうちに解き明かされたみことばに留まって、どうにかして真っすぐなみことばを届けようとするものである。
パウロはみことばの真実を伝えて、妥協も曖昧も許さなかった。

それは相手の信仰を軽んじることでもあり、みことばに混ぜ物をすることは、主の家族の関係を破壊するものである。

 

それどころか、ペテロが割礼を受けている者への福音を委ねられているように、私は割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました。

ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。(7~8)

 

人の子イエスに育てられたペテロと、イエスの霊によって立たせられたパウロは、まったく違う育ち方をした主の兄弟であって、二人を結ぶのはイエスを教会のかしらとする従順であり、御子をたまわった父なる神への恐れに拠ることである。

 

そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。それは、私たちが異邦人のところに行き、彼らが割礼を受けている人々のところに行くためでした。(9)

 

ヨハネたちがパウロを使徒として受け入れたのは、パウロに働く神の力を謙遜によって認めたからである。

それは彼らの喜びがパウロの喜びと少しも変わらなかったからである。

そう、他の何でもなく皆イエスを喜んでいて、福音を一人でも多くの人に届けることを喜びとしていたからである。

 

ペテロは自分が誇れるような者ではないことを、三度もイエスを否んだ失敗によって知っており、パウロも教会を迫害していた事実によって、自分が主にどれほどに用いられようと、ただ、主の憐みに拠ることをわきまえていた。

その心の痛みは高ぶりや傲慢からの守りでもあり、彼らの働きの基礎には謙遜があった。

 

聖書には、傷を持っている者が用いられる事例が多くある。それらの傷はイエスの血潮によってきよめられた時、肉の働きに釘を刺すものである。

神は忘れてくださった罪も、未だ肉を着ている人の記憶に残されるのは、用いるために必要な謙遜の備えである。

 

パウロは神の啓示に従って謙遜にエルサレムに上って行き、ペテロたちはパウロを迎えて彼の言葉に謙遜に耳を傾け、みこころが成る喜びを共有するのである。教会は聖霊の働きに謙遜でなければみこころが成ることはない。

「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」(マタイ5:48)

 

パウロやペテロの肉に残っている失敗の記憶が、イエスの血潮によってきよめられ、互いを優れた者として交わる言葉が用いられるとき、その関係は御霊に結ばれた一つとして、真っすぐにみこころを行う力となる。それがキリスト者の完全である。

 

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