石ころ

聖書のことばと詩と短歌や俳句などで書いています。息子の美しい写真とのコラボです。

いのちこそ宝(マタイ6章)

 

 

自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。(19)

 

エスの弟子の宝とは何であろう。それは当然イエスに約束されている永遠のいのちであり、イエスとの関係である。
世の事に心を奪われつつイエスに仕えることはなく、彼らの心は常に主と共にあり、みこころを求めて世から聖別された者である。

 

盗み取られる宝は限りある命であり、金銀や世の賞賛であって、それらはすべて世で消耗するものである。

それゆえイエスは、約束のいのちを宝として生きるようにと命じられた。それは唯一永遠に残るものだからである。

 

世でどれほど知恵を用いて自分の富を管理していても、それらは一瞬にして失われることがあり、富が多ければ生涯をその宝のために用いることになる。

その命の日々は、必ず来る死によってすべてを無駄な戦いとして、永遠の滅びを刈り取る。

 

世の宝は平安をもたらすものではなく、命を守るものでもない。金持ちも今日を生きるのに精一杯な者と同じように人生を支配され、宝が彼に留まるのは一瞬である。

 

自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。(20)

 

エスのことばに命を託して生きる者には、霊は絶えず祈りの中にあってみこころを求め、聖霊による主との御交わりにあって、日々神に養われる豊かさを経験をして感謝に満たされるのである。

 

みことばを生きた使徒たちは、迫害の中で喜びに満たされイエスを賛美していた。彼らは天にたくわえられているいのちの宝を持っていたからである。


その心の深みではすでに約束の御国に休んでいて、何処にいてもどのような時代であっても、キリストの平安があるのだ。

 

彼らが蓄えているものは、命の日々にイエスのことばを経験して生きた時間である。これはどんな時代が来ようとも、試練の中で見捨てられたように命が尽きようとも、決して持ち去られることのないいのちの喜びである。

 

あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。(21)

 

宝が永遠のいのちであるなら世のすべての時を用いてみことばを求め、主を経験することに人生を用いる。
みことばは救い主イエスを愛することを導いて、主を知る喜びを蓄えさせる。その命の日々はイエスへの愛を告白し続ける。

 

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。(22~23)

 

見たものによって心は支配される。聖霊が導くみことばを霊の目で見て、イエスとの交わりに在る者は命のゴールに永遠の希望を見る。その心は移ろうことのない光の中で常に健やかである。

 

しかし、すり減って行く世の命を見つめて生きる時、その先に待ち受ける死の闇を見続けるのである。たとえ心を誤魔化して目を反らし刹那的な繁栄に酔っても、その光は一瞬にして過ぎ去る命と同じである。

 

神の作品である人の心は、それらが本当に求めるべき価値を持っていないことを漠然と感じて、折々に手近なものを神として身を避けようとするが、それらは永遠のいのちであるイエスから遠ざけるものである。

 

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(24)

 

結局人生は何を愛し何に命を捧げるかという選択である。
しかし、神は一瞬に過ぎ去るものに捧げる命を創造されたのではなく、御許に永遠を楽しむために造られたのである。

イエス・キリストはその事実を命をもって伝え、滅びることの無いいのちを与えるために来てくださった。

 

エスの与える永遠のいのちこそ宝、この世で消費して終わりなき裁きを選択してはならない。キリストを受け入れることは自分のためだけではない。

神の良い計画を成して御子イエスの犠牲が実を結び、救い続けて神の喜びとなるのである。

 

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