
ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。
ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています。(10~11)
キリスト者の善は聖書からイエス・キリストを伝えること、聖霊に導かれたみことばを真っすぐに伝えること。
パウロは不自由な目で真理を綴り、ガラテヤの人々を福音に連れ戻している。彼らを愛しているからである。
肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。(12)
律法の行いは目に好ましくて人に誉められるが、福音に留まることは、イエスに信頼していない者には愚かでしかないのだ。しかし、キリスト者は世の評判には拠らずみことばを生きる者である。
割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。(13)
キリスト者はイエスの十字架に、罪を贖われた事実に在って今すでに永遠のいのちを生きる者である。救われた日からその国籍を永遠の御国に持つ者である。
これほどの恵みに在って、なを滅びゆく世の誉に渇くのは、御子イエスの十字架の救いが経験とはなっていないゆえである。
イエスは十字架で救いを完了してくださり、黄泉にまで下り三日目に墓からよみがえって天に昇り、父成る神の右の座に着いておられる。
このイエスのうちに抱かれて死を通り、復活を共にして生まれた神の子なのである。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
このときから、イエスが遣わせてくださった聖霊の助けの中で、みこころに生きるようになる。すべては神の憐みと恵みに拠ることである。
しかし誘惑するものは、完成された救いに疑いを持たせ、目に麗しいものを着けさせようと罠を設けるのである。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。(14)
新しく生まれた神の子が身に着けるものは、キリストの約束のことばだけであり、ただ、イエス・キリストの救いだけが見えるように生きるのである。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(15~16)
純粋なみことばに何も付け足さず差し引かずに生きるとき、主への深い感謝は喜びとなってみことばへの従順がゆっくり育って行く。
これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。
兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。(17~18)
パウロはガラテヤの教会がキリストに留まり、御霊に繋がれてパウロと一つであることを祈って「アーメン」と筆を置いた。
サタンの攻撃は外からやって来るのではなく、教会に在ってみことばに立っていない者を誘惑する。
エバを誘惑して人類に死が入ったように、永遠のいのちを狙っている。
しかしみことばに留まっている者がサタンを恐れる必要はなく、聖霊に信頼して聖書を読み続けることこそ完全な守りである。