石ころ

聖書のことばと詩と短歌や俳句などで書いています。息子の美しい写真とのコラボです。

ヨブの妻の言葉(ヨブ記)

 

 

ヨブたちは10人の子どもたちを亡くし、財産のすべてを失った。ヨブはそれでも神を崇て信頼を変えなかった。

 

「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

 

信仰は夫婦でも親子でもそれぞれである。神をどのような方とするかは、自分の信仰に拠るのだ。

 

妻はヨブのからだまで崩れて行くのを見るにつけて、苛立ちを増して行く。妻を経験している者としてはその気持ちはとても良く分かる。
神に怒りをぶつけて訴えるだけの関係を持たないとき、傍にいる夫に感情を吐き出して責めるものである

 

すると、妻が彼に言った。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」(2:9)

 

痛烈な言葉である。ヨブを責めた友人もエリフも此処までは言わなかった。
妻が夫を批判する言葉は大体容赦ないものとなる。愚かさも弱さも誰よりも知っているからである。

 

故無く子どもたちを取り去られ、財産のすべて失って、体まで崩れて行く夫の姿を見ることは、妻にはどれほどに辛く悲しいことだろう。

彼女の言葉は子供を亡くした深い悲しみに在って、病む心から出たのである。

 

しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。(2:10)

 

ヨブは彼女の言葉の上に、彼の信仰の言葉を重ねて覆っている。このヨブの信仰に拠って、彼女は神の祝福に拠る10人の子どもたちを産むのである。

ヨブは、「あなたは愚かな女ではないだろう、」と慰めてもいる。

 

信仰が最も試されるのは家庭である。取り繕うことが出来ない関係の中で、腹にある言葉が現れるのである。また日常的に信仰を告白する場でもある。

 

しかし、ヨブにも支配出来ない言葉が魂のうちに沈んでいて、それは理不尽な責め言葉に反応して腹から吹き出し、曝け出される時が来る。そう、妻のように・・・。

 

神がヨブの信仰告白を、それら肉の言葉によって取り消されることはない。神は人が塵に過ぎないことをご存じであり、未だ信仰によって肉を支配出来ないことはご存じだからである。

神は彼が言葉にする前から心を見ておられ、口から出た言葉だけで判断されることはないのだ。

 

しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。(ヤコブ3:8)

 

舌を支配する者はいないとある。
しかし神は、愛をもって心を見ていてくださる方であり、イエス・キリストの十字架に拠り頼む心を知っていてくださる。
不信仰な言葉を覆うみことばを備えて、聖霊によって語っり出し、祝福の子らを産み出す者としてくださいますように。

 

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